「あなた、ここはきちんとハネなさい。」
文字を書く都度に、と言うと大げさですが、お習字の先生のことを思い出します。

丁寧な女性的な言葉遣いからは想像もつかない、南方系のようなふくよかで、その中にもどっしりとした男らしさ漂うお姿は、30年経ってもデジタル画像のように鮮明に浮かんできます。
それは添削をしてくださるときに、先生と正対していたからでしょう。何度も先生の運筆とお顔を拝見しました。五月の新緑の中を駆け抜ける風のように、素直な文字を書かれる先生でした。

物腰はお優しいですが、指導方法は甘くはありません。何度も書き直しをしました。先生に教わったことを守ると、見栄え良く、読みやすい字を書くことができるようになりましたが、7年かかりました。

私も大人になり、息子を授かると、さらに先生を思い出すことが増えました。「息子も先生に文字を習うことができたら」と願うばかりです。
しかし、それは永遠に叶うことはありません。先生は阪神・淡路大震災の際、ご自宅の屋根にブルーシートをかけようとされたときに、落ちて亡くなられたそうです。あの素晴らしい文字をお書きになる先生、もったいなく、それ以上に、寂しく、未だに切ない気持ちでいっぱいです。先生が遺された、文字を書くことの素晴らしさを、私は息子にさえ伝えることができていません。もう一度お会いしたい、と思う気持ちは、亡くなった方にとっては良くないことかもしれない、と思いながらも、その気持ち抑えることがまだできません。

45歳になり、またお習字を始めることにしました。一文字書く毎に「きちんと留めなさい。」「つくりの部分が大きすぎるでしょ。」と、先生のご指導を思い出します。先生は喜んでくださっているでしょうか。いつか天国でお会いしたときに、お見せできるような文字を書く準備をしています。
kazaguruma